金木犀が咲き出す頃、急に冷えこみが増し、咲き終わる頃には大抵、セーターを出しています。毎年、繰り返されることを身近な花とセットで覚えておくと自分なりの歳時記が自然にできあがってきます。
寒くなってきましたが、今日もあちこちで虫の音が聞こえています。場所によってリンリンリン、コロコロコロ、チリリリと、声もさまざまです。近づくと人の気配を感じて鳴きやんでしまいますが、代わりに少し離れたところにいる虫が呼応するかのように鳴き出したり。なかなか姿を見ることはできませんが、そこにいるんだなと思いながら、耳だけで感じているのもいいものだなと思います。
七十二候の「蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)は10月18日頃。昔はコオロギのことをキリギリスと呼んでいたので、この蟋蟀はコオロギや鳴く虫の総称です。虫の音のピークはすっかりすぎていますが、次第に少なくなり、弱くなり、それでもなお、止むことなく、草むらの中でいのちの限りを尽くすように鳴いている小さな虫たち。弱々しく優しい声を聴いていると、なんとも静かで穏やかな気持ちになります。
現在の七十二侯は日本の風土に合わせてアレンジされて今日に伝えられていますが、この「蟋蟀在戸」は紀元前に成立して以来、変わっていない七十二侯のひとつです。そのベースになっているとされる詩が、中国最古の詩集とされる『詩経』(紀元前12〜6世紀)の中に出てきます。暦に従って生きる農民の一年を詠んだ詩の一節です。
意味は「七月は野に在り、 八月は軒下に在り、 九月は戸口に在り、十月になると蟋蟀たちは我が床の中に入り込む」。冷え込みが増すにつれて、あたたかい場所を探して家の中にも入りこむコオロギの習性。寒さの中で声を聴き、コオロギを思いやる気持ちは数千年経っても変わっていないのだ、と思うと胸に迫るものがあります。
その後、中国の詩聖、杜甫や白居易も、弱って家の戸口や寝床にやってくるコオロギのことを漢詩に詠み、それが日本へも伝えられました。そして中世の歌人たちは、この弱りゆく虫たちへの思いをさまざまに詠んでいます。列挙するとものすごい数になるのですが、もっともよく知られているのが西行の歌です。
『詩経』をベースに読むと、こうした歌も紀元前から連綿と受け継がれてきた「生きものへの愛の歌」なのだということがわかります。
なんでもそうですが、物事は盛りのときよりも、終わりゆくときがもっとも趣深く、心を打ちます。月は満ちていくときよりも、欠けていくときの方が味わい深く、虫の音も盛んに鳴いているときではなく、弱っていくときにこそ、しみじみと胸に迫るものがあります。
日本人は四季の中でもっとも秋を愛し、その秋の中でも晩秋を最上のものとして感じてきました。ですので、秋の和歌も調べてみると、晩秋を詠んだものが圧倒的に多いのです。「もののあはれ」や「侘び」「寂び」の精神は、生々流転のいのちへの哀歌であると同時に賛歌であるともいえるでしょう。
さて、私自身は子供の頃、お風呂場に入り込んでくるコオロギがいて、湯船に浸かりながら、壁に反響して朗々と響き渡るコオロギの声を聞いていた記憶があります。時期は覚えていませんが、きっと寒くなった晩秋の頃だったのでしょう。今では懐かしい思い出です。コオロギとよく似ているカマドウマ(竈馬)も家の中が大好きで、かまどの周辺によくいたことからこの名がありますが、カマドウマは翅がないので鳴きません。そのため便所コオロギなどの俗称があります。
気密性のよくなってきた現代では、家の中にコオロギが入ってくることはなくなってしまいましたが、今思えば、家の中で鳴き声を聴いているというのはなかなか贅沢なものだったように思います。
弱りゆく虫の音こそ、最上のもの。気づいたら、ぜひ足をとめて聴いてみてください。わが家の周辺では11月の下旬ごろ、最後まで鳴いているのは大抵、カネタタキ(鉦叩き)です。チン、チン、チンという規則正しい金属的な音です。コオロギたちは住宅街の植え込みでも、たくましく生き続けています。みなさまの地域では今、どんな声が聞こえていますでしょうか。