節気は小寒に入り、いよいよ寒の入り。七十二候では第六十七候「芹乃栄(せりすなわちさかう)」を迎えました。
まだ寒い内から群生し、互いに競り合うように伸びるのがセリ(芹)の名の由来です。セリはもっとも古くから食用とされてきた日本原産の野菜であり、香りがよく、整腸作用、免疫力をあげる、体温を上げて冷えをとる、体に溜まった老廃物を排出するなど、さまざまな効果がある元祖、和ハーブです。
芹は水辺の植物なので、うちの田んぼにもよく生えています。夏には白い花を咲かせ、水路を邪魔するほど繁茂するのですが、実際に芹が生えてくるのはもう少し先になります。
早くから出回る栽培セリと違って、野生のセリはまだ食べられるほど生えてきていませんが、それでも昔の人は雪間からのぞくわずかな草を摘みに出ました。
芹はご存知のように春の七草のひとつ。太古の時代から食用とされ、早春の「若菜摘み」を代表する野菜です。日本には元々、年の初めに野に出て、身近に自生する若菜を摘んで食べる「若菜摘み」の風習がありました。現在のように冬野菜が存在していなかった時代、早春の青菜はビタミン不足を補える貴重な栄養源でした。
この若菜摘みと、中国から入ってきた1月7日の人日の節供、七種の菜類を入れた羹(あつもの)で無病息災を願うという行事が習合し、江戸時代に広く定着して、今日の七草粥となって伝えられています。
といっても七種は長らく固定しておらず、地方によってさまざまでした。必ずしも七種でなくてもよく、身近にある野草を数種類入れる、ということが多かったようです。当時の人日の節供は現在の2月ごろになりますので、実際に若菜が生えていたことでしょう。現在もこの風習は西暦の1月7日で受けつがれ、七草セットはスーパーでパックになって売られています。
ちょうどお正月のおせち料理で疲れた胃を休めてくれるので、菜類を入れたお粥はいい食養生になります。菜類は七種にこだわらず、カブの葉やミツバ、ダイコンなど、お好きなものでよいかとおもいます。真っ白なお粥に点々と浮かぶ青は美しく、まさに雪間にのぞく草のようにも見えてきます。
春の七草は「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ」とされています。セリは田んぼなどの水辺を好む植物なので、身近に見られない方もいらっしゃるかもしれませんが、それ以外のものは現在も都会の住宅地でふつうにみられる雑草たちです。
ナズナ(薺)はぺんぺん草、ハコベラはハコベ(繁縷)、ゴギョウはハハコグサ(母子草)、ホトケノザはコオニタビラコ(小鬼田平子)です。またスズナはカブ(蕪)、スズシロは(大根)とされていますが、かつてはノビル(野蒜)とヨメナ(嫁菜)だったともいわれています。つまり水辺に生えるセリ以外は、日本のどこにでも生えるおなじみの雑草であり、その生態系は不思議なほど今も変わっていません。
七十二候にはさまざまな動植物がとりあげられていますが、それはひとつの例として言葉にあげられているものですので、決して芹だけに注目するということではなく、芹を代表とする「若菜」として感じてみると、七十二候を通して伝わってくる季節感は、より明快にわかるようになるのではないかとおもいます。
この和歌は、千利休が「わび茶」の真髄を伝えるために引用したことでよく知られています。藤原家隆は鎌倉初期の歌人で、『新古今和歌集』の撰者の一人です。人は華やかな花が咲くことばかり待ち望んでいるけれど、雪間の間から萌え出ているこの輝くような若草を見せてあげたいものだ。
冬の終わりに春の兆しを最初に見つける喜び、小躍りするような発見の歓び。誰もが美しいと褒め称えるものではなく、自分だけが、その瞬間にだけ出会えるような、足元にある小さな輝きに目をとめ、心を動かすこと。一期一会の「わびの心」はそうしたものの中にある、と利休は説きました。
「若菜摘み」はそれを食するというだけでなく、力強い野草の生命や、春の息吹に直接、手で触れることで冬の気枯れを払い、新鮮なエネルギーをいただくという意味合いがありました。雪間から萌え出ている力強い野草たち。コンクリートの隙間からしっかりと芽吹いている種々(くさぐさ)の強さ。そんな様子を千利休のように、自分の目で確かめていただければとおもいます。