「熊蟄穴(くまあなにこもる)」は七十二候の中で、もっとも好きな一候です。
七十二候の多くは、気象の変化や花の開花、鳥や蝶など、実際に目でみることができるものですが、熊が穴にこもる瞬間というのは、絶対に人が目にすることができない光景です。
熊は冬眠する前に大量のドングリを食べて、栄養をつけます。その痕跡が熊棚(くまだな)。熊は高い木に登って、豪快に枝を降りながら実を食べ、その枝をお尻の下に敷いて座り心地のよさそうな座布団を作ります。秋に折られた枝は葉がついたまま枯れるので、裸木の中で大きな鳥の巣のように残っています。真冬になると熊に出会う心配もなく、熊棚の観察は冬の森の楽しみのひとつであり、熊の生存を確認できる目印でもあります。
ところで、「熊穴に入る」といえば初冬の季語、「熊穴を出ず」は仲春の季語ですが、単に「熊」といえば、活動期の夏ではなく、冬の季語になります。
面白いですね。実際にみることがないのに、です。昔から人々が冠雪の始まった山を見上げ、冬ごもりする熊をそっと思いやってきたからかもしれません。人と熊は出会うことなく生きていくのがいちばんですが、たとえ会うことがなくても、共に生きるものへの慈しみや畏敬の念が季語になっていくのでしょう。
小雪」の頃にチラチラと降り出した雪はあとかたもなく消えてしまいますが、「大雪」の頃になるとはっきりと消え残るようになって、山の頂はもう粉砂糖をかけたように、真っ白になっています。
二十四節気の「小雪」や「大雪」も、都会の人にはピンとこない、ということになりますが、節気も七十二候と同様に、遠くに住むものや、遠くにある景色を「心の目」で見なければ、みえてきません。
昔の人はよく「奥山(おくやま)」とか「深山(みやま)」という言葉を使いましたが、人を寄せつけない山の奥で繰り広げられていることを想像の目でみていたのでしょう。
「もののあはれとは命の儚さや愛おしさを知ること」と本居宣長は説きました。それは自分だけの解釈に限らず、相手の身になれる共感能力や、目に見えないものを思いやる大和心に通じています。循環する命のつながりは、想像することなしに感じることはできません。
ドングリが豊作だった年は妊娠する熊が多くなり、不作の年は少なくなるそうです。熊の出産は1月頃。年が開けたら、今頃、母熊は無事に出産をしただろうか、子熊たちはあたたかいお母さんのお腹の上で、ぬくぬくと順調に育っているだろうか。ぜひそんな想像をしてみてください。決して見ることのないあたたかい風景です。
出てくる頃にはすっかりやせ細り、しかも幼い子供を連れている母熊はとても神経質になっているそうです。春のフキノトウやクマザサの新芽、ブナの若芽などが好物で、山菜採りにでかけた人が出くわすと大変、危険です。
山に入るときは、人間の方が彼らのテリトリーに入っている、ということを忘れないようにしたいものです。私も定期的に熊のいる森に入らせてもらっていますが、甲斐犬の血をひくフジコという犬を放して、一緒に入っています。熊がいれば、間違いなく知らせてくれるたくましい番犬ですが、今のところはネズミやヘビを見つけて吠えています。
「熊蟄穴」は熊だけでなく、リスやヤマネなど、多くの動物が眠りにつくことも想像できる、生きるものへの愛しみにあふれた一候です。
※七十二候(しちじゅうにこう)は、日本の1年を72等分し、季節それぞれのできごとをそのまま名前にした、約5日ごとに移ろう細やかな季節です。
出典:暦生活