七十二候「霎時施(こさめときどきふる)」を迎え、いよいよ時雨(しぐれ)の季節がやってきました。
時雨はパラパラと降っては止んでしまう通り雨や、しとしと降る優しい雨のこと。
一瞬、雨粒が大きくなることはありますが、長雨になることも、激しい雨になることもありません。晩秋から初冬の景色をしっとりと染めあげていく、この情趣あふれる雨を日本人はことさら愛しんできました。
時雨(じう)という場合の意味は文字通り「時を得て、程よく降る雨」ですが、時雨(しぐれ)という場合は晩秋から初冬に限定された言葉で、しぐれの読みは「しばらく暗い」など、一時的な暗さからきているといわれています。
時雨と呼べるのは、ちょうど今頃から紅葉のクライマックスあたりまでと思っていただけるとわかりやすいかとおもいます。
初時雨(はつしぐれ)は立冬を迎えて最初に降る雨のことで、冬の始まりを告げる雨として多くの俳人が詠んできました。時雨は正確にいうと冬の季語になるので、それ以外の季節は春時雨、秋時雨など、季を冠して区別します。以下は芭蕉の代表作です。
そぼ濡れて寒そうに震えている猿の姿が目にみえるようです。
旧暦十月十二日(11月上旬)に没した松尾芭蕉の忌日は「時雨忌」と呼ばれています。芭蕉がことさら時雨を好んで多くの作品を残していることと、ちょうど時雨の季節に亡くなったためで、「時雨忌」「翁忌」も季語になっています。
多くの人が芭蕉を思い出しながら心を澄ませ、静かに聞く雨音です。時雨はちょっと気まぐれな感じで、雨粒が時折、大きくなって、屋根にあたる音が音楽のように聞こえるときがあります。
また、時雨には子季語がたくさんあり、さらにこまかいニュアンスを伝えることができます。
朝時雨、夕時雨。小夜時雨(さよしぐれ)は夜の間、しとしとと降る雨。
月時雨(つきしぐれ)は月明かりの中で降る雨。
片時雨(かたしぐれ)は片方では晴れ、片方では降っている雨。
村時雨(むらしぐれ)はひとしきり強く降って通りすぎていくような雨。
山時雨(やましぐれ)は山から山へと移っていく時雨で、「山めぐり」ともいいます。
北山時雨(きたやましぐれ)といえば、京都の北方から吹く風とともに降る山めぐりの雨で、京都の風物詩として知られています。
液雨(えきう)は立冬から小雪の頃に降る時雨のことで、虫やカエルたちがその水を飲んで巣穴にもぐるので「薬水」「薬雨」ともいわれます。
しっとりと濡れた落ち葉がみせる一瞬の造形の美しさにはしばしば目を奪われますが、蒸れてあたたかそうな落ち葉をみると、そこにかくれるように生きているたくさんの生き物たちの気配も感じます。雨のおかげでドングリがもう芽吹き出していたり、菌類も活発に育っています。
ところで旧暦では神無月を迎えましたが、神無月の異名は時雨月(しぐれづき)です。そのため「神無月と時雨」を詠んだ和歌もたくさん残されています。神無月に降ったり降らなかったり、定めなくやってくる時雨こそ冬の始まりである、と詠んだこの和歌はその代表です。
そして時雨は色づき始めた紅葉を美しくする雨でもあります。紅葉は雨に濡れることで一層、赤く、鮮やかに燃え上がります。そして「時雨亭」といえば、紅葉で知られる小倉山にある藤原定家が百人一首を編んだといわれる山荘の名前です。
定家の時雨といえば、中里恒子の『時雨の記』を思い出します。中年のプラトニックラブを描いた小説で、定家のように世俗を離れ、ひっそりと暮らしたいと願う二人が最後に紅葉まっさかりの時雨亭を訪ねるシーンがあります。吉永小百合がこの小説に惚れ込んで映画化され、お相手役は渡哲也でした。
ストーリーはともあれ、若き日の私はこの主人公が自分なりの経験を重ねて庭木の一本、生活のひとつひとつを大切にし、ていねいに生きる描写に魅了され、時雨がすっかり好きになった記憶があります。清楚で上品な吉永小百合さんに本当にぴったりの役でした。
最後に美味しい時雨といえば、「時雨煮(しぐれに)」。貝や牛肉を生姜で煮た佃煮をさしますが、その語源は昔、時雨煮として人気があった蛤(はまぐり)の旬と時雨の季節が重なっていたからとも。味がさっぱりしていて口の中を時雨のようにあっさりと通りすぎていくからともいわれています。