10月27日は旧暦九月の十三夜。八月十五日の十五夜に続く「後(のち)の月」とされ、中秋の名月と並ぶ月見の日とされています。
正確には七月(西暦8月頃)、八月(西暦9月頃)、九月(西暦10月頃)、秋の三ヶ月、それぞれに月見の日がありました。
初秋七月の月見は「二十六夜待ち」。二十六夜は真夜中に出る細い月ですが、この月の出の瞬間に出る光の中に、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が現れるとされ、その光を拝むと幸運に恵まれるとされていました。海から月が見える品川や高輪には多くの料理屋や屋台が並び、豪商たちは船で酒宴をひらき、大賑わい。あまりの盛況ぶりに禁止令が出されて下火になったとされています。
仲秋八月の十五日は旧暦七、八、九月、秋三ヶ月の真ん中にあたりますので、中秋の名月。仲秋は葉月全体(西暦9月頃)をさしますが、中秋は秋の真ん中にあたる八月十五日に限定して使われる言葉です。
そして晩秋九月の十三夜は満月よりちょっと欠けている、ふっくらとした月。そぞろ寒になってきて、いよいよ空が澄み渡り、煌々と明るい月が上がることが多いので、月見にはとてもよい季節。
十五夜は年によっては曇ってまったくみえないことがありますが、十三夜はほぼ晴れることから「十三夜に曇りなし」という言葉もあるほど。
十五夜は中国伝来の風習ですが、十三夜は日本独自の風習で、ちょうど栗や豆の収穫期に重なりますので、「栗名月」と呼ばれたり、「豆名月」と呼ばれたりします。また十五夜の男名月に対して、優しい感じの「女名月」という言葉もあります。一部の地方にある「小麦の名月」という名称は、この日の晩の天気がよければ、来年は豊作として吉凶を占ったからだそうです。
十三夜にお供えするお団子は十三個。栗のほか、大豆、柿、ぶどうなど季節のもので。もちろん、眺めるだけでも十分です。長月は菊月ですので、菊の花を添えたり、食べたりするのもよいかと思います。ふっくらとした黄色い月のかたちは、本当に栗にそっくりです。
かつては十五夜と十三夜のどちらかを見ないことを「片見月」といって縁起が悪いとされていました。それほど深く浸透していた風習だったのでしょう。近年はあまり知られなくなっていますが、もうひとつの秋のお月見として復活すると楽しいですね。
「後の月」を詠んだ芭蕉の有名な句です。月見をことさら愛した芭蕉は十三夜の月光を浴びながら、栗の実を夢中になって食べている小さな生き物に思いを寄せました。
仏教で明るい月は悟りの象徴とされ、煩悩の闇を照らし、迷いが晴れることを「真如の月」といいます。また「うがつ」という言葉には物事を掘り下げて本質を捉えるという意味もありますので、「月下の栗」は、ただ心で想像したものなのか、真如の月に照らされて一歩ずつ内面を究めようとする小さな自身の姿を虫に重ねたものでもあったのか、さまざまな感慨が湧く十三夜の句です。
いつでも月はこんなものであろうと思って、他の季節との違いがわからない人は情けなく、残念である、と吉田兼好は書いています。実際に秋の月が美しいのは空気が澄んでいて本当にくっきりと見えることと、上がってくる角度がほどよく、大きく見えるためでもあります。
秋は月。中秋だけではなく、晩秋の月も楽しみましょう。月の和歌はたくさんありますが、圧倒的に多いのは名月ではなく、晩秋の月を詠んだ和歌なのです。昔の人は終わりゆく虫の音に耳を澄ませ、種を残してくさぐさが枯れてゆく、生々流転のいのちの季節をことさらいとしんできました。
さてさて、美味しそうな「空の栗」、今年は見られるでしょうか。夜になったら、ぜひ空を見上げてみてください。
出典:暦生活