二十四節気と七十二候
冬の間、水底に身をじっと沈めている魚たちですが、春の陽光を浴びて水面がきらめき出すと、様子を伺うように水面近くに上がってきます。
金魚が薄氷を舐めては沈んでいく様子が目にみえるようです。早春は寒暖の差が激しく、新たに氷が張る日もあれば、解ける日もありますが、魚にとっての1度の差は人間の5度に匹敵するそうで、1度下がれば大変です。あたたかい日には水面に上がり、寒い日にはまたもぐって過ごします。
七十二候の「魚上氷(うおこおりをいずる)」は「氷の割れ目から魚が跳ね上がる」と、解説されていることが多いのですが、魚が跳ね上がというのは、ご機嫌でうれしそうにしているという意味合いですので、魚たちが泳いでいるのがみえる、あるいは天気の良い日に元気そうに動き回っている、という程度に考えていただければと思います。
水がぬるんでくると、人はなんとなく水をのぞきこんでみたくなるものですし、生きものの様子にも自然に目がいきます。七十二候「魚上氷」は、水辺の春を感じましょう、という意味合いの一候です。
この映像はうちの近所の太田黒公園の鯉です。陽の当たるあたたかい日でしたが、まだ水温が低いのでしょう。身を寄せ合って、じっとしていました。
薄氷(うすらい)は陽射しを浴びると解けてしまうような薄い氷のことで、春の季語。子供の頃、水たまりなどに張った薄い氷をパリンパリン、割って遊んだ記憶はありませんか。つかもうとしてもすべってしまったり、壊れてしまったり、手の中で溶ける感触を楽しんだり。ガラスのような危険なものでもありますが、このひび割れた氷の模様を昔の人は「氷割れ」といって、尊んできました。
氷割れ(ひわれ)文様は着物の地模様に使われることが多く、建具、工芸、包み紙など、かつてはかなり頻繁に使われていた幾何学文様で、骨董の陶磁器ででは氷裂文(ひれつもん)として知られています。
この氷割れは単に自然界の造形美であるというだけでなく、不純物の少ない「寒の水」を一年でもっとも清らかな水として尊んだように、氷割れは純粋な高潔さの象徴とされていたため、武士にも人気があったそうです。
そしてこの氷割れに梅を合わせた文様は、「氷割れ梅」または「氷裂梅文」、「氷梅(ひうめ)」と呼ばれています。日本の早春を表現する定番の文様であり、おめでたいものの表徴でもあります。
富山の銘菓「薄氷(うすごおり)」は宝暦2(1752)年から続く白梅軒・五郎丸屋の和三盆のお菓子で、北陸の深い雪が溶け始める頃、田んぼの上にうっすらとできる薄氷を模したもの。白梅軒という屋号からもしのばれるように、梅と薄氷は切っても切れない仲であり、関係が深いのです。
先日、梅暦について書きましたが、梅暦といえば、為永春水の『春色梅暦(しゅんしょくうめごよみ)』が知られています。庶民の実生活を描いた人情本で、当時は人々から熱狂的な支持を受け、風俗を乱したとして絶版を命じられたほどでしたが、その後も長く日本の愛読書として読み継がれ、森鴎外や永井荷風に影響を与えたといわれています。これはその冒頭の一節です。
「外は田畑の薄氷、心解け合ふ裏借家も、住めば都にまさるらん」
田んぼにはまだ薄い氷が張っている。そこに身を寄せ合うように並ぶ家々。薄氷が解けることと、そこに住む人々が貧しいながらも心解け合い、助け合って暮らしていることを掛けた巧みな表現で、牧歌的な早春の風景が浮かんできます。
「住めば都」は今も変わりませんね。それぞれの場所に、それぞれの幸せが必ずある。無事に春を迎えられた。それだけで十分、幸せなこと。余寒でさえ、喜びになります。まだまだ寒い日が続きますが、心はあったかくいきたいものです。
立春をすぎるとすべてのものが新しく思え、川の水が流れる音や、ポタポタと落ちる水の音さえ春の譜を奏でているように感じられます。
春の水、春の川、春の海、春の雨、雪解け水など、春は水に関する季語が多く、「春の水」をさらに強調して「水の春」といいます。
寒さの緩みを感じ、ぬるみ始めた水辺をなんとなく眺めてみたりすると、自然に心が歌い出します。心が歌うときの季語は「春うれし」、「春楽し」です。
出典:暦生活