七十二候では「雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)」を迎えました。
大地はすっかり緑に覆われ、草花たちの季節。スミレの花があちこちに咲いています。スミレが咲くと椿の全盛期が過ぎる、と一茶は詠んでいますが、本当にその通り。遅咲きの椿もそろそろ盛りを過ぎ、長く咲いていた椿もいよいよ盛りをすぎ、雨に濡れた落椿(おちつばき)が一層、鮮やかになって地面を染めています。
春の雷が鳴り始める頃、大地は落ち椿で鮮やかに彩られています。
「龍天に登る」という季語をご存知でしょうか。龍は「春分にして天に登り、秋分にして淵に潜む」。中国の最古の字解『説文解字』に記されたこの一文から、「龍天に登る」は春分の頃の季語となり、「龍水に潜む」が秋分の頃の季語になっています。
『説文解字』の前文にはこう書かれています。「龍は鱗虫の中の長なり、能(よ)く幽かに、能く明らかに、能く細に、能く巨に、能く短に、能く長なり、春分にして…」
啓蟄のときに説明しましたように、虫というのは蛇のことです。龍は鱗(うろこ)のある蛇の中の長(かしら)であり、「時に微かであったり、明瞭であったり、時に細かかったり、巨大であったり、短かったり、長かったりする」。この表現はやはり雨を思わせます。
日本は一年中、雨が降る国であり、そのおかげで稲作ができるわけですが、昔は旱(ひでり)、長雨、洪水、いずれも飢饉の原因となって、多くの人々が命を落としたため、季節ごとに順当に降る雨は、なによりも重要なことでした。そのため人々は水の化身である龍を祀ってきました。全国にさまざまな龍神伝説がありますが、それは農耕生活と深く結びついています。
春になると龍が天に登って雲を起こし、稲の成長に欠かせない恵みの雨を降らせ、その役目を終える秋にはまた水の底に帰っていく。龍の化身である春雷(しゅんらい)を、祈りをもって迎えたであろうことは容易に想像がつきます。
「龍天に登る、龍淵に潜む」。この季語に呼応するように七十二侯でも、春分の末侯「雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)と、秋分の初侯「雷乃収声(らいすなわちこえをおさむ)が対になっています。
春の雷は、まさに龍神様のおでまし。春の雷(はるのらい)、春雷(しゅんらい)、遠雷(えんらい)ともいいますが、遠くからぼんやりと聞こえてくる雷の音はなんともいえず優しく、懐かしく、良いものです。
春の雷には夏のような激しさはありません。だんだん近づいてきて、ほんの数回、激しく鳴ったかと思うとすぐに遠ざかって、また小さくなっていきます。そんなところも龍神様がさーっと空をお通りになったかのようです。
今年も桜の開花が例年より早いようですが、かつて人々が桜を田の神の依代として、その年の豊凶を占ったように、七十二侯はそうした年によるズレをチェックして、後半を予測するためのものでもあります。
例年通りであれば、ちょうど桜が満開をすぎた頃、雷がゴロゴロと鳴って、雨が降り出します。ああ、今度の週末にやっとお花見ができそうだと思っていると、雨が降って、がっかりされることも多いかとおもいますが、これはもう日本列島の定め。桜に雨が降り、雷が鳴ったら、きわめて順当な自然な摂理、とにっこりしていただければとおもいます。毎年、繰り返されている「花の雨」です。
桜の咲いている間にはもちろん、うらうらとしてあたたかい春日和(はるびより)がありますが、その天候は長くは続かずに、必ず寒の戻りがあり、ぐずついた天気になりますので、「花冷え」「花曇り」などの季語があります。
そして必ず風の強い日が訪れますので、「花に嵐」といい、「花発(ひら)いて風雨多し」ともいいます。花びらが強風に巻き上げられるように空高く舞う「花吹雪」は毎年見られる光景です。春はどこまでも雨と風の繰り返し。
雨が降る度に芽吹きが進み、風が吹く度に春がやってきます。
出典:暦生活