日本政府が現在の西暦(グレゴリオ暦)を公式な暦として採用したのは明治6年です。今年は改暦150周年にあたります。では、私たち日本人はどのような暦を使って暮らしてきたのでしょうか。
日本人が飛鳥時代から明治5年まで、千数百年にわたって使ってきたのは月と太陽の周期を併用した太陰太陽暦でした。初めは中国伝来の暦をそのまま使っていましたが、途中、何度も改暦を繰り返しながら、日本独自の暦が作られるようになりました。一般には江戸末期に施行された天保暦のことを、新暦に対する旧暦と呼んでいます。
ところで、和暦という言葉は日本独自の元号をさすのが一般的ですが、私は旧暦が「にほんの暦」、「和の暦」として見直され、西暦だけではつかめない「自然暦」のひとつとして併用されることを願って「和暦」を使うことを決め、手帳の名称も十年前に『和暦日々是好日』に変更しています。おかげさまで和暦という言葉もある程度、浸透してきたようなので、ここでは旧暦を和暦とさせていただきます。
和暦は簡単にいうと「月と太陽の暦」ということになりますが、非科学的なものではなく、二つの天体の動きをほぼ正確に知ることができる時間軸です。月の満ち欠けと太陽の一年。くるくる回る小さな歯車と、ゆっくり大きく回る歯車が同時に回っている暦です。太陽だけの暦に慣れてしまっている私たちにはわかりにくいのですが、月と太陽、両方の目盛り使って時を計ることは、昔の人にとってごく当たり前のことでした。
各月の始まりは必ず新月で、三日は三日月、十五日は満月と、夜空が天然のカレンダーになります。電気のない時代、月は夜の大切な灯りであり、空を見上げるだけで、大体の日付を知ることができました。実際、夜のお出かけや村の寄り合いは満月のことが多く、盆踊りも満月の下で踊るものでした。
この月の満ち欠けに加え、太陽の運行に基づき、農耕に必要な季節の節目となる二十四節気が組みこまれ、人々は月の形で日にちを数え、太陽の目盛りで季節を計りながら、日々を営んでいました。
めまぐるしく変わる豊かな四季に恵まれた日本では、暦はなくてはならない重要なものとなり、江戸末期には幕府公認のものだけで四百五十万部の暦が発行され、これほど暦が普及していた国は、世界でも類がないのだそうです。
暦の作成は天文の観察から始まり、膨大な研究の歴史があるわけですが、日々を生きる人々とってはただ月を見上げ、太陽のぬくもりを自ら感じ、暮らしも行事も、そのめぐりに則したものでした。
一太陽年の365日に対し、月の12朔望(満ち欠け)は354日ですので、一年に11日ほどのズレがあります。月名は立春に近い新月から始まって、睦月、如月、弥生と進みますが、太陰太陽暦では数年に一度、閏月を入れて一年を13ヶ月とすることで調整しています。
閏月の設定は紀元前に発見されたメトン周期に基づき、19年に7回、閏月を入れて1年を13ヶ月とすると、小さな月の歯車と大きな太陽の歯車が永遠にぴったりと噛み合うようになっています。一年の内、どこに閏月を入れるかについては二十四節気が関係しています。
一方、現在のグレゴリオ暦は400年に97回、2月末に閏日を入れる設定で、一日分の誤差が生じるのに3000年以上かかるというすぐれた暦です。世界共通の暦として使われている、とても便利なものですが、数字と曜日だけが意識され、自然界のサイクルや四季の移ろいを感じにくいところがあります。
これを補ってくれるのが、日本古来の和暦です。太陽の目盛りである二十四節気の基本は、冬至と夏至の二至(にし)、その中間の春分と秋分の二分(にぶん)で、四つに分かれます。その中間点が立春、立夏、立秋、立冬で、各季節の始まりになります。
それぞれ三分割すると二十四の節気となり、約十五日ごとの農耕の目安になっています。今はちょうど春分をすぎましたので、春の後半戦に入ったところです。清明、穀雨と進み、藤の花や牡丹が咲く5月初旬に立夏を迎えます。
七十二候はこの二十四節気をさらに三分割し、約五日毎の特徴的な気象や、こまやかな動植物の変化を示したものです。七十二候の成立は中国の黄河流域の紀元前770年頃にその源流をたどることができます。二十四節気はほぼ変更されることなく、今日まで継承されていますが、七十二候は日本の気候風土に合わせて、何度か変更されてきました。
日本人は月の満ち欠け、草花のたたずまい、虫の音や鳥の声などに精妙な時の移ろいを読み取り、兆しと名残を感じて暮らしてきました。その集大成が歳時記です。和暦がわかるようになると今がいつなのか、季節が明快に理解できるようになります。節気だけでなく、弥生、卯月などの月名も同様で、現在も歳時記には4月には(弥生)と明記され、5月は(卯月)と明記されています。今回は弥生について少しだけご紹介します。以下は弥生の主な異名です。
禊月 祓月 雛月 桃浪 桃月
草木張月 桜月 花見月 花月 夢見月
雁帰り月 嘉月 佳月 竹の秋 竹秋
春惜しみ月 晩春 暮春
禊月、祓月(けいげつ、みそぎつき、はらえづき)は三月三日上巳の節供に、上巳の禊を行うことに由来します。桃浪(とうろう)は、びっしりと波頭のように並んで咲く桃の花の盛りであることから。草や木の芽が一斉に芽吹き始めるので、草木張月(くさきはりづき)。桜が咲くので桜月、花見月、花月。桜は夢のように美しく、儚く散るので「夢見草」とも呼ばれますので、夢見月という名前もあります。
雁帰り月は雁や鴨たちが北へ帰る頃という意味で、鳥雲、鳥曇りなどの季語があり、入れ代わりに燕がやってきて、桜が咲く頃には燕が見られるようになります。嘉月、佳月(かげつ)はめでたい月、よい月の意です。すべてが明るく美しく感じられ、うららかな春たけなわの月。
竹は地中の筍を育てるため、春に黄ばんで葉を落とすので、竹の秋。春惜しみ月、晩春、暮春は言葉の通り、弥生は春の最後の月ですので、ゆく春を惜しむ気持ちを表した表現です。
こんなふうに月の異名をちょっと知るだけでも、その月の季節感が明快に立ち上がってきます。ちなみにネイティブインディアンの暦では、4月の満月をピンクムーンと呼びます。野生の芝桜、フロックスが山や丘をピンクに染めるからだそうです。こんなふうに西暦とは異なる季節のものさしがあると、日々が豊かに感じられるのではないでしょうか。
歳時記は、つねに自然と一体になることを「美」と感じてきた日本人の価値観が凝縮されたものです。日本人は中国伝来の暦をとりいれたことによって、繊細な「気配と兆しの文化」を築いてきたともいえます。
大陸性気候の中国と、海洋性気候の日本では季節の移り変わりが異なり、日本はゆっくりと寒くなり、ゆっくりと暖かくなります。中国の立春は春がはっきりと感じられますが、日本は寒さの峠でもあり、一瞬のゆるみを感じてわずかに梅がほころぶことに春を感じます。ふと目をとめ、耳を澄ませば、誰でも気づくことができる、ごく身近なものの中に「兆し」や「名残り」があります。日々をていねいに積み重ねていれば、自然にみえてくる感性の世界です。
和暦は再びめぐる月の満ち欠け、再びめぐる季節を深く感じることができる暦です。今年も無事に年を越せた、今年も無事に桜を見ることができた。しみじみと湧き上がる喜び。繰り返されることが幸せそのものであり、「円環する時間」を意識することは、永続性のある本質的な豊かさにつながっています。
地球上のあらゆる生命は太陽と月の恩恵によって育まれ、すべてがつながりながら、生まれては消え、循環しながら、美しいこの奇跡の星に生かされています。自然界のめぐりを知る、もうひとつのものさしとして、和暦を日々の暮らしに取り入れていただけたらと思います。
出典:暦生活